足の下に感じる歴史の重さ【大鞘樋門】
2009 / 08 / 04 ( Tue )
久しぶりに南へ行きました。
(そんなに遠くはありません)

熊本県第2の都市・八代(やつしろ)市に広がる「八代平野」。
干拓地として、イ草栽培、トマト栽培などでも知られています。

イ草には約500年の歴史があるんです。
※岩崎主馬守忠久(いわさきしゅめのかみただひさ)から始まる長い歴史については、今回は割愛させていただきます。

さて、この平野は実にその3分の2が干拓によってできたそうです。
そして、ここも土木の神様・加藤清正がその基礎を造ったのです。

干拓の歴史を今に伝える遺構の一つである「大鞘樋門」(おざやひもん)に立ち寄りました。
旧鏡町に位置します。

「樋門」とは、用水の取水や内水の排除を目的とした利水施設で、厳密には水門とは違うようです。(が、よく分かりません)

大鞘樋門1

見事な石造りの建造物です。
大鞘樋門についての詳しい説明は、下の看板をご覧ください。(手抜きです)

大鞘樋門看板

要点を説明すると、
文政2年(1819)につくられた四百町開の堤防樋門で、備前(岡山県)の人、高野貞七によって造られました。樋門には、城に使うような大きな石を使っています。若い現場監督の広松輔周が、上司の意にそむき大きな石を使わせたので「広松のもがい井樋」といわれています。この樋門堤防には、七百町開のときに長小屋が作られ、たくさんの人夫が寝泊りしました。誰ということもなく「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がおこり「大鞘名所(大鞘節ともいう)」の発祥地となりました。
(八代市ホームページより)

約200年前の建造物です。
熊本でアーチ式眼鏡橋が結構造られている時期ですね。
大鞘樋門は備前の石工が手掛けたようなので、石工にも得意分野があったのかもしれません。

ここ一帯の干拓は、野津手永の惣庄屋である鹿子木量平(かなこぎりょうへい)が指揮しました。

野津手永といえば、石橋で有名な岩永三五郎がいますね。
(お墓に寄ろうと思いましたが、道に迷いました・・・残念)

説明にもありましたが、「大鞘(おざや)名所」という唄があると書いてあります。
これは、単なる唄ではありません。
干拓の重労働を強いられた出稼ぎ人夫たちの労働歌であり、当時の過酷さを物語る歴史の重みが唄として伝わっているのです。
この辺は下のサイトが分かりやすいです。
参考:ふるさと寺子屋塾No.56「くまもとの干拓の歴史」

大鞘樋門2

樋門の反対側です。
石組の大きさが違いますね。面白いです。

大鞘樋門3

白いものが見えます。
石灰岩のようです。
ということは、八代城の石垣と同じ石です。(白鷺城ですね)

八代には、「郡築三番町樋門」という国指定重要文化財があります。
(こちらにもいつか行きます!)
こちらは明治33年(1900年)に造られた樋門で、石造アーチ式10連樋門です。
一部にはレンガも使われています。
というより、この時代にも干拓が行われていた(続いていた)ことに驚きです。
(参考:国土交通省九州整備局ホームページ

何気なく車で走ったり、歩いたりしている足元にも、意外な歴史が眠っているんですよね。
そして、その歴史の上に私たちがいる。
たまには、そのことを考えてもいいのかもしれません。



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