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「隈部氏館跡」に注目!
2009 / 05 / 21 ( Thu )
山鹿市菊鹿町の「隈部氏館跡」と天草市倉岳町の「棚底城跡」が国指定史跡になるようです。
地域振興に寄与することが期待されていますが、そもそもそれが何なのか、知らない人は多いでしょう。
今回は「隈部氏館跡」に注目してみました。
(天草は遠いので・・・そのうちします)

「隈部(くまべ)氏館跡」は、天正15年(1587年)に起きた「肥後国衆一揆」の主導者、隈部氏(隈部親永)の居城で、少なくとも16世紀前半には築城されていたとされています。
一般に“氏”は入れず、「隈部館跡」と呼ばれています。

隈部氏館跡9
あくまでも“跡”です。

そもそも隈部氏とは?
国衆一揆って何?
天正15年ってどんな時代?

と、普通はいろんな疑問が出てきます。(興味がない人は仕方ないとして)
今回はとことん隈部氏館跡を掘り下げてみたいと思います。
(長くなりそう・・・)

※歴史なのでいろんな説があることをご了承ください。

さて、「隈部氏」について。
平安時代前期の清和天皇(第56代 ※平安時代前期)の血統で、「源」姓を賜った「清和源氏」の流れを汲み、その中の「大和源氏」(現奈良県の大和国を本拠地とした流れ)が出自といわれています。
この「大和源氏」は後に「宇野」姓を名乗り(宇野という地名より)、その中の「宇野親治(うのちかはる)」を祖としたのが「隈部氏」です。

この宇野親治は、平安時代末期の武将。
崇徳上皇(75代天皇)と後白河天皇(77代天皇)が対立して勃発した保元の乱(保元元年・1156年)では、上皇側につき敗れました。(後白河天皇側の勝利)
そして肥後の国へと来ることになるのです。

ちなみに、熊本県山鹿市の山鹿温泉は、保元の乱に敗れて下ってきた宇野親治が保元2年(1157年)に手負いの鹿が湯浴みをして傷を癒しているのを見て温泉を発見したといわれています。
毎年4月に「山鹿温泉祭」が開催されていますが、その前に親治の菩提寺とされる雲閑寺のお墓の前で、墓前祭がおこなわれています。
(温泉祭は賑やかな祭りです。 参考→山鹿探訪なび

いろいろ広がりますねえ。

宇野親治は大和国へ帰ったという話もあるので、何とも言えませんが、当時、隈府城(現在の菊池市にある菊池神社辺り・)を本拠とする菊池氏と係わりがあったといいます。
菊池一族24代の第6代菊池隆直(きくちたかなお)の時代です。
(寿永4年・1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家側として戦い、敗れて死去)

その後、宇野親治の子孫か、関係のある者が菊池氏に仕え、文永元年(1264年)に第10代菊池武房(きくちたけふさ)から隈部姓を与えられ、隈部持直(くまべもちなお)を名乗ったのが始まりといわれています。
菊池武房は、元寇(文永の役・1274年、弘安の役1281年)で活躍し、「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)にも描かれている武将です。
菊池神社の歴史館(入館料大人300円)でその写しを見ることができます。

―――ちょっと休憩。
ネットを駆使して調べているんですが、限界がありますね。
ほんとにいろんな説があり、「こうなりました」と言いきっていたしりもして・・・。
このブログもそうですが、ここで興味を深め、現地へ行ったり、資料を読んだりして、さらにおもしろくなるためのきっかけとして捉えてほしいと思います。
―――休憩終了。

菊池一族について書き出すとまた長くなるのでできるだけ割愛します。

その後、南北朝時代を経て、菊池氏は家督争いで衰えていきます。
阿蘇家が入ったりもしました。
菊池氏が大友氏によって滅亡すると、その地は菊池三家老と言われた赤星氏・城氏・隈部氏等が治め、隈府城には赤星氏が入りました。
(この表現が正しいかどうか不安・・・)

やがて、隈部氏は赤星氏と領地問題で争い、永禄2年(1559年)に合瀬川の戦いで赤星氏を打ち破り、隈部氏が隈府城に入りました。このときが隈部氏で最も有名な隈部親永(くまべちかなが)です。
そして、隈部親永が隈府城に入るまで居城としていたのが「隈部館」なのです。
(やっと出てきました)
ちなみに、「合瀬川」という名称が出てきましたが、「菊鹿温泉」の旧名は「合瀬川温泉」です。
温泉に浸かり、武将たちが傷を癒したかもしれません。

この隈部親永は、天正15年(1587年)に起こった「肥後国衆一揆」(ひごくにしゅういっき・肥後国人一揆ともいう)の中心人物の一人です。
「国衆」とは戦国時代の地方豪族の呼び方で、「国人」ともいいます。「国人」の集合体を「国衆」とも。
一揆というと農民一揆を想像させますが、集団で領主や幕府等に対して起こす暴動を指します。

「肥後国衆一揆」は、「本能寺の変」以降に豊臣秀吉が全国統一を進めた時代のことです。秀吉が九州を平定した跡、佐々成政(さっさなりまさ)が肥後の領主となります。
佐々成政は、秀吉の命に背き、検地を行います。
(秀吉は国衆と3年間は検地をしないという約束をしていました)
これに怒った国衆が反乱を起こしたのです。

しかし、圧倒的な秀吉軍の前に、果敢な抵抗を見せたものの、最後には敗れてしまします。
(隈部親永は捕らえられ自刃)
最後の砦が、玉名郡和水町にある「田中城跡」です。(先に国指定史跡になりました)

肥後国衆一揆の後、佐々成政は責任を取らされ切腹。
翌年(天正16年・1588年)には、加藤清正(北側)と小西行長(南側)が肥後の国を治めます。

「隈部氏館跡」と同じく国指定史跡になる予定の「棚底城跡」は中世、天草五人衆に数えられた上津浦(こうつうら)、栖本(すもと)両氏の抗争地ともなった場所です。
「棚底城跡」自体は今回調べていませんが、天草五人衆は、肥後国衆一揆の2年後、天正17年(1589年)に、小西行長に反発して、「天正の天草合戦」を起こします。
この関連性もおもしろいところです。

一通り説明が終わりました。

隈部館跡に戻ります。
実際に行きました。(仕事で近くまで行ったので・・・ホントです)

隈部氏館跡3

「あんずの丘」から15分位でしょうか。栗林に囲まれた道路を進み、山を登ります。
到着すると駐車場がきれいに整備されています。

隈部氏館跡6

天気は良くありませんでしたが、眺めはとってもいいです。
自然の地形を利用して建てられた中世の城だったのでしょう。
敵だけでなく本人たちも大変だったことでしょう。

隈部氏館跡2

「枡形」と呼ばれる石垣の構造です。(ワクワクしますね)
熊本城などの近世のお城の原型となったと言われています。
近年修復されたと書いてありました。

隈部氏館跡5

これも石です。
「水鳥石」と書いてあります。
全く説明がありません。
水鳥に似ているのでしょうか。あるいは昔は似ていたのでしょうか。
庭園等にある水を貯める石ですかね。
一般常識ですか?

隈部氏館跡4

規則正しく並んだ石を見ると、建物跡だということが良く分かります。
一部、コンクリートが流してあって残念ですが、保存のためなのでしょうか。

隈部氏館跡7

隈部神社です。
隈部氏が祀られているのでしょう。

隈部氏館跡8

神社の中に掛けられていました。
時間がないので帰ってから読もうと思ったのですが、こんな感じです。
(失敗しました)
歌のようです。
行った人は、ぜひ見てください。

冒頭にも書きましたが、国指定史跡になることで地域振興につながるのか疑問に感じました。
まあ、実際に私がこうして行ったのですから、ゼロではないでしょう。
どのように紹介するのでしょうか。
「肥後国衆一揆」だけでなく、「山鹿温泉」「菊鹿温泉」「菊池一族」などともつながっていることを合わせて知ってもらうと、とてもおもしろくなると思いますね。(今回そう思いました)

ただ広がり過ぎると収集がつかなくなります。
大変なだけです。
繰り返しますが、ネット上の情報を主に参考にしたので信憑性を問われると答えられませんのでご了承ください。

(この記事を書くだけで3日くらいかかってしまいました・・・)


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