鞠智城跡から出土した「百済系菩薩立像」のレプリカを見ました。
2010 / 02 / 22 ( Mon )
年度末で忙しく、ブログ更新がままならない日々が続いています。
なので、身近な、または手軽な情報でつなぎたいと思います。

先週のことですが、歴史公園鞠智城にある温故創生館で、平成20年10月に出土した「百済系菩薩立像」のレプリカの展示が始まったということで、ちょっと見てきました。

1300年の時を経て姿を現した銅製の像です。
(今回は携帯での撮影のため、画像はそんなによくありません)

百済系菩薩立像1

結構小さいですね。
高さは12.7cm(像の高さは9.7cm)、幅3.0cmです。
下の方が細くなっていて、何かに取りつけていたように見えます。

百済系菩薩立像2

この↑写真を見ると、二コリと笑顔を浮かべているように見えます。
(実際は澄ました顔なんですが・・・)

百済系菩薩立像3

これは横から見た写真です。
身体がSの字に“くねっ”と曲がっていますね。
ちょっと不自然な形ですが、専門家の方の説明によると“優雅な”曲線らしいです。

百済系菩薩立像4

これは後ろから。
特にコメントなし。
でも、レプリカって、すごいですね。
本物と言われても、きっと疑いません。精巧な造りです。

百済系菩薩立像5

パネルに載っていた、出土したときの写真。
広大な敷地の中で、こんな小さなものをよくまあ見つけたものです。
国営化を目指している最中、絶妙のタイミングで発見されました。
関係者の方は、さぞから喜ばれたことでしょう。

最近は、ころう君(※鞠智城イメージキャラ)の着ぐるみもできて、話題となっています。

早く、「特別史跡」になるといいですね。

※参考サイト:歴史公園鞠智城・温故創生館サイト
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残念無念・・・八千代座100周年キャラ
2010 / 02 / 18 ( Thu )
賞金100万円で話題となった「八千代座100周年イメージキャラクター」が決定しました。

残念な結果となったキャラクターは下の「チヨマツ」です。

“残念な結果”というのは私も応募した・・・つまら落選したからという意味です。
chiyomatu.jpg
100周年らしい、おめでたいキャラです。

残念無念です。

また、詳しい情報が分かり次第、図鑑登録したいと思います。
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たまにはお寺もいいもんです【春光寺】(八代市)
2010 / 02 / 14 ( Sun )
熊本のいろんなところに立ち寄って、面白いものを探しているんですが、神社に行くことは多くても、なかなか仏閣は少ないんですね。
神社は無人であったり、参拝者が普通にいたりするので、どちらかというと気兼ねなくウロウロすることができるんです。(寂しい時はありますが・・・)
でも、お寺はなかなかそうはいきません。
廃寺でないかぎり、住職さんが住んでいる訳ですから。
ウロウロしていると、「何か御用?」という声が掛かるんじゃないかと気にしてしまいます。
堂々とすればいいことなんですが、個人的な趣味及びブログのネタに・・・と思うと、なぜか後ろめたさを感じてしまうんですよね。立派な紹介もできないですし・・・。

でも、今回は思い切って立ち寄ることにしました。
八代市の古麓地区にある「春光寺」です。
(ようは八代神社、懐良親王御墓の続きです)

「春光寺」は八代城主だった松井家の菩提寺です。
先に細川忠興が八代城主だったことを書いたかと思います。
細川忠興が正保2年(1645年)に没した後は、筆頭家老だった松井興長が八代城主となり、以後松井家が代々城主を継ぎました。

※松井家に関する詳しい内容はこちら→八代市立博物館ホームページ

春光寺4

これが「春光寺」の入口です。
石段と奥の門と塀に歴史を感じますし、とても立派です。
でも、手前にビニール紐が張ってありました。(立入禁止?)

春光寺3

短いですが石橋です。
向こう側に崩れないように応急処置が施してありました。
渡ると危険ということなんでしょう。

上の駐車場に車を停めました。

春光寺1

下から見えた立派な門は、かつて八代城三ノ丸に米を保管する蔵屋敷「永御蔵」が建てられており、そこの「御門」と「番所」を昭和61年に移設したものだそうです。(案内板より)
番所の方は、資料室になっているようですが、残念ながら鍵がかかっていました。

本堂へは、ここから階段を上がるのですが、手前の左手に家があります。
迫力ある不動明王(らしきもの)の石像が目を惹きます。

春光寺10

「花屑?」と書いてありました。「?」部分は達筆過ぎて分かりませんでした。
「庵」のような気もするし・・・
大根が干してあったので、どなたかが住まわれているのでしょう。

春光寺案内板

案内板↑を読んで、本堂の外観を“そろっと”拝見。
(“そとっと”し過ぎて、写真撮るの忘れてました・・・)
建物の一部には、すばらしい彫刻や襖絵が残っているそうです。

春光寺9

本堂の写真はありませんが、「利休袈裟形御手水鉢」というものが置いてありました。
細川忠興は、文化人としても優れた人だったようで、茶人「千利休」高弟として「利休の七哲」と呼ばれていました。
その縁の品なのかもしれません。(そうでないかもしれません)
それにしてもデカイです。

本堂から左手に入り、松井家の御廟を訪ねることにしました。

いろんな碑があるのですが、途中こんなものもありました。↓

春光寺8

何語かすら分かりません。(ロシア語?)
なので、何の碑かも分かりません。
それでも、長い年月を経ている由緒あるお寺だけに、さまざまな歴史があるのだろう・・・と感じました。

春光寺5

御廟に上がる階段脇の石垣です。
城主の菩提寺の石垣にしては、ちょっと荒い気もしますが、味はあります。
ひょっとしらら、近くにある名和氏・相良氏時代の古麓城関連の石垣なのでは・・・と想像してしまいます。
(※古麓城についてはこちらをどうぞ→八代市ホームページ

春光寺6

立派な御廟です。(合掌)

春光寺7

松井家の代々及び縁の人の御墓です。
さすがに大きいですね。
ただ、形や大きさがほぼ揃えられているというのが面白いですね。

また、ここには宮本武蔵の自筆の文字を刻んだ「戦気」の碑が建っています。
松井家と武蔵・・・これもまた深い関係があるのです。
この辺の話は、また追加調査を行った後にまとめて紹介できればと思います。
(未定ですが・・・)

たまにはお寺もいいなと思いました。
(でも、やっぱり気が引けます)
「春光寺」は紫陽花(あじさい)の見どころでもあり、「紫陽花寺」とも呼ばれているとか。
行くのなら、紫陽花がきれいな時期がいいかもしれません。
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静寂の中に独特の空気が漂う【懐良親王御墓】(八代市)
2010 / 02 / 12 ( Fri )
八代神社(妙見宮)から車で5分ほどのところにある公園。
初めて行ったのですが、途中から急に雑音が途切れ、不思議な静寂さを感じました。

懐良親王御墓1

ここは「懐良親王御墓」です。
懐良親王(かねながしんのう/または、かねよししんのう)は、第96代後醍醐天皇の皇子でちょうど南北朝時代(1336年-1392年)に南朝方の征西将軍として九州に派遣された人物です。
肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に菊池氏などと共に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築きました。
かなりエライ人です。
宮内庁も認定している御墓です。

懐良親王御墓8

宮内庁が管轄している証拠。
なるほど、雰囲気が少し違うはずです。

懐良親王御墓5

そして、これが御墓です。
墓所内には大正5年に発見されたという、親王御自筆銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があるそうですが、分かりませんでした。
柵がしてあり、しっかしと施錠してありました。

懐良親王御墓6

気のせいか、普通の鍵よりも立派に見えます。
とても頑丈そうです。
柵は低いので乗り越えようと思えば物理的に不可能ではないんですが、そうはさせない目に見えない力が働いているようにすら感じます。
(何なのでしょう・・・この感覚)

ちなみに、懐良親王は、「八代城跡」に造られた「八代宮」に祀られています。
「八代神社(妙見宮)」とは違いますので、ご注意ください。

懐良親王御墓3 懐良親王御墓4

「勅使坂」という坂がありました。“勅使”とは、天皇の使者(代理)として赴く人のことを言いますので、この坂は、そういう人が上り下りする坂なのでしょうか。
ちょっと先まで歩いてみましたが、何もなかったので途中で引き返しました。
(薄暗く、ちょっと怖かったし・・・)

懐良親王御墓7

柵で囲まれた苗木。
何の木でしょうか・・・。

懐良親王御墓9

道を挟んで向かい側には、きれいな小川が流れていました。
ホタルも生息するという、水無川です。
この辺りは散策ができるように整備されています。
時間があれば、のんびりと歩いて回るといいかもしれませんね。

不思議な雰囲気を感じに、足を運んでみてください。
(感じないかもしれませんが・・・)
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境内をぐるっと見てみると・・・【八代神社(妙見宮)】(八代市)
2010 / 02 / 11 ( Thu )
久しぶりの熊本南下で、八代(やつしろ)へ行きました。
あいにくの雨降りで、息抜きの寄り道もできないかとガッカリしていたんですが、午後から雨も止み、ほんの少しですが、八代をちょっと探訪してみました。
(ほんの限られたエリアですが)

そして、訪れたのが「八代神社」(やつしろじんじゃ)別名(旧名)「妙見宮」(みょうけんぐう)です。
朱塗りの柱などに加え、細かな彫刻にも丁寧に彩色が施されていて、とても美しい社殿です。

八代神社1

妙見宮は、上宮・中宮・下宮の三社からなり、現在の神社は下宮にあたります。
(上宮と中宮には行ってません)
明治4年・1868年に「妙見宮」→「八代神社」へ名称が変更になっているのですが、そもそもの「妙見信仰」というのは何なのでしょうか。

妙見信仰は、北極星あるいは北斗七星を崇拝する信仰から起こっています。
神社内にある「妙見由来」には、

妙見神は聖なる北極星・北斗七星の象徴なり。
 妙見神の来朝
天武天皇、白鳳九年(六八〇)、妙見神は、神変をもって、目深・手長・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に来朝せり。

とありました。
「亀蛇」は「妙見祭」にも登場するのでよく分かるんですが、妙見神そのものはまったくイメージが浮かびません。もともとは道教系の信仰らしく、明治の神仏分離政策までは「妙見大菩薩」という仏様を信仰していたようです。

また、桓武天皇の勅願によって延暦14年(795年)、八代市横獄の山頂に社殿が創建された(上宮)のが始まりで、永暦元年(1160年)、二条天皇の勅願により上宮の麓に新しい社殿(中宮)が造られました。
下宮は、文治2年(1186年)建立と書いてありました。
現在の社殿は、元禄12年(1699年)と寛延2年(1749年)に改築されたときのもので、熊本県の重要文化財にも指定されています。

八代市のホームページによると、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、国常立尊(くにとこたちのみこと)そして北斗七星(ほくとしちせい)を祀っているそうです。
この中の「天御中主神」が「妙見大菩薩」の替わりに祀られるようになったようです。
とはいえ、長い歴史があるので、今でも神社そのものが「妙見さん」と呼ばれていますし、毎年秋にある「八代妙見祭」は、日本神話とはちょっと違う、異文化を思わせるお祭りです。

※参考:熊本県八代市 妙見宮大祭ホームページ

相変わらず神社ってややこし要素を多分に抱えていますね。
それもまた魅力の一つかも。
もう少しスッキリ説明してあるとよいのですが・・・

話を戻します。

八代神社2 八代神社3

左上の写真は、本殿の3方にいた仁王さん(?)です。
何かを支えているようですが、少しずつ異なるポーズをとっていました。
右上の写真は、拝殿の入口の屋根部分にある龍の彫刻です。(すごい!)

また、ここには狛犬が数組奉納(設置)されています。
その中でも本殿のすぐそばにある狛犬は少し変わった形をしていました。

八代神社19 八代神社20

柵があって、近くには行けませんでしたが、最初は猿かと思いました。
なんとなく“のぺっと”していますよね。タテガミが無いせいでしょうか・・・・
台座には狛犬の文字が見えました。大きい字は達筆過ぎて読めません。
きちんと阿吽のポーズをとっていました。

八代神社4

自分でお祓いする道具です。
大麻です。「おおぬさ」と呼ばれるお祓いの道具です。「たいま」ではありませんので・・・。
使う勇気がありませんでした。
今度、家族で行ったときに使いたいと思います。
(「たいま」ではありません。「おおぬさ」です)

ここの境内の敷地は広く、いろんなものがあります。

八代神社17 八代神社18

隣りにある「大宮社」です。
狛犬ではありませんが、これまた何の動物か分かりづらいです。
馬か・・・牛か・・・それとも漠か・・・?
雄だということは、ハッキリと分かりました。

八代神社5 八代神社6

さて、こちはの木(左上)は、“かりんの木”です。
柵には“頭上注意”のプレートが。
とても立派なかりんが11月~12月頃に実るそうですが、それが落下してきて危ないそうです。

かりん爆弾に注意しましょう!当たったら痛いです(>_<)

と書いてありました。(爆弾って・・・)
先ほど、妙見宮は八代神社に名称が変更になったと書きましたが、「妙見宮」は今でも普通に使われていますね。

八代神社12 八代神社13

正面入り口にある「妙見宮の樟」です。
八代市指定天然記念物で、樹齢600年以上といわれる古木です。
根元はだいぶ痛んでました。
周囲の石垣に文字が刻んでありますが、
「その始めを知らず、又終わりを知らず。万歳のもと枝葉茂盛す。ああ霊なるかな。」
という意味で、安政5年(1858年)6月に、八代町や大阪等の信徒によって寄進されたものです。
よく分かりませんが、それだけ永い時代を生きている大樟だということなんでしょうか。
当時はもっと元気が良かったと思うので、その生き生きとした姿を拠り所としていたのかもしれません。

八代神社7 八代神社8

今回嬉しかったのは、「八代妙見祭」で使われる亀蛇や獅子舞などが展示してあり、見ることができたということ。
(以前はなかったと思います)
八代妙見祭の始まりはかなり古い時代でよく分かっていないそうですが、現在の行列の形態になったのは、細川忠興公が寛永12年(1635年)に神輿や祭礼の諸道具を寄進してから。亀蛇や笠鉾などが登場するのは、今から約300年前です。
(詳しくは先ほどの妙見祭のホームページをご覧ください)
社殿の造りと同じように、色彩豊かで立派なものばかりです。
そういえば、ニュースで亀蛇の子どもが登場したという話題もありましたね。

ちなみに細川忠興は、江戸時代には小倉城主であり、息子の細川忠利は肥後細川藩の初代藩主です。
寛永9年(1632年)に細川忠利が熊本城に入ると同時に、細川忠興は八代城主となります。
なぜ息子の方が地位が高いのかというと、このときにはすでに家督を譲り、隠居・出家して三斎となっていたからです。
正室は有名な細川ガラシャです。
(いろいろ話はあるのですが、とっても長くなるのでまたの機会に・・・)

八代神社9 八代神社11

また、ここは西南戦争のゆかりの地でもあります。
だいぶ汚くなった説明板がありました。
先のほどの「妙見宮の樟」には当時の激戦を思わせる銃弾が撃ち込まれているそうです。
見ても分かりませんでしたが、境内にある別な樟に穴を発見!(右上)
ひょっとして・・・と思いましたが、当時の跡がこんなハッキリ残っているわけはなく、おそらく虫食いの穴でしょう。

他にも境内にあるものをいくつか紹介します。

八代神社14 八代神社10

だいぶ錆ついている遊具です。(左上)
安全性は問題ないのでしょうか・・・ちょっと心配。

裏手には大きな樟が何本かあります。
先ほどの虫食い穴を発見した巨木です。(右上)

ゲートボール場もありました。

八代神社15 八代神社21

そのゲートボール場の横に置かれている石の柱など。
おそらく、昔の鳥居の残骸でしょう。
保存されているのかもしれませんが、ちょっとかわいそうな状態ですね。
だからといって、何の使い道もないと思いますが・・・。

今回紹介しませんでしたが、他にも神社や石像などがいろいろとあります。
八代神社(妙見宮)へ行ったら、ぐるっと境内を散策されることをおススメします。
神社の方にいろいろと話を聞けるとさらに面白い発見があると思います。

また、周辺には他にも見どころがいっぱいなんです。
その一部にも立ち寄ったので、またご紹介します。

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幻想の灯【山鹿灯籠浪漫・百華百彩】(山鹿市)始まりました。
2010 / 02 / 07 ( Sun )
昨日の2月6日(土)は、「山鹿灯籠浪漫・百華百彩」という山鹿市の中心部「八千代座」及び豊前街道周辺でおこなわれている灯りのイベントに行きました。
このイベントは、2月の毎週金・土曜の夜に行われています。

※詳しくは→山鹿灯籠浪漫・百華百彩公式サイト

ここの“灯り”の特徴は、竹灯籠と和傘の組み合わせ、そして、八千代座での山鹿灯籠踊りや太鼓などの公演(有料)です。山鹿灯籠踊りもまた“灯り”なので、うまく調和しています。

昼間は天気もよく暖かかったのですが、日が落ちてくると共に気温もグッと下がってきました。
家族3人、ちゃんと防寒していたんですが、駐車場で車を降りた途端「寒い、寒い」を連呼。
身体が縮こまってしまい、豊前街道を進む足取りも重く、なかなか灯りが見えてきません。
街道に沿って、ちらほらと竹灯りはあるんですが・・・

でも、八千代座が近付いてくると、雰囲気は一変します。
たくさんの灯りが待ち受けていて、その幻想的というよりは、“あったかな”光景に目を奪われてしまいます。
ほんとうに寒さを感じなくなりました。(歩いたから?)

百華百彩1 百華百彩2百華百彩3 百華百彩4

もっといろいろ見どころはあるんですが、なかなか撮影も難しくて・・・。
というか、たくさんの人が訪れていたんですが、その約半数はカメラと三脚を持ったカメラマンでした。
(私のような一般人から、アマチュアカメラマン、おそらくプロカメラマンまでいろいろ)

百華百彩14

なので、見どころの前では↑こんな状態。(分かりますか?)
それだけ、画になる光景がたくさんあるということなんでしょう。

さて、私たちは、ただ観るだけでなく、何か手伝いができないかと思い、チャッカマンを片手に歩きました。そして関係者の方の了解をいただき、消えているろうそくに火を付けていきました。

百華百彩2

風が吹いてなかなか点きません。(点いてもすぐ消えてしまいます)
でもなかなか楽しかったですね。

DSC_0022_20100207085749.jpg DSC_0019_20100207085750.jpg

途中でお店に入り、甘酒(100円)をいただきました。
おじさんがお土産を売っていたのですが、そこが普段何をしているお店なのかは分かりませんでした。
甘酒を飲みながら、ストーブの前で暖をとっていると、お客さんが少なくなったときに、「これはとても貴重なものだけど・・・」と言って、何やら渡されました。

百華百彩3

真ん中の「八千代座組合」と書いてある木製のものがそうです。
拍子木と呼ばれるものでしょう。(幕が開くときに音を鳴らす道具)
古くてとても貴重なものらしいのですが、「壊さないように」と注意を受け、特別に音を出させていただきました。
木を合わせる面がカーブしていて、中々きれいな「カーン」という音が出せません。
結局、おじさんのお手本を見せていただきました。
(おじさんも何回か失敗していましたが・・・)

ほんと、貴重な体験です。

百華百彩4

着物の貸衣装をしているお店です。
小物も売っていました。
着物姿の女性っていいですよね。新鮮です。

百華百彩5

これは山鹿灯籠を制作・販売しているお店です。
すべて紙でできているなんて、あらためて感心しました。
家もあります。
そこで、お店の人に聞いてみました。

「自分が建てた家と同じものを、山鹿灯籠で作ってもらうことって、できますか?」

「むずかしいですね」

やっぱりですね。
というか、自分の家を建てることが一番難しいし・・・。
くだらない質問をしてすいませんでした。

百華百彩6 百華百彩8
百華百彩13 百華百彩7

灯りのモニュメントはバリエーションも豊富。
文字が光る竹灯籠(左上)や横位置で飾られたもの(右上)、門松が違和感なく(?)置かれたもの(左下)、小さいおひなさまが竹の中に入っているもの・・・などなど。
これらは、期間中に増えていくそうです。
(なので2月後半が最も見ごろかも)

駐車場近くの「百花堂」という建物では、「紙あかり展」が行われていて、大学生(デザイン科)が紙で作った灯りが展示してありました。

百華百彩9 百華百彩11

どれも結構凝っています。
一つひとつにタイトルと説明が書いてありました。
ちなみに上右の写真の紙あかりのタイトルは何でしょうか。
凍った滝をイメージして造られています。

答えはこちら→画像
うーん。学生らしいです。

ちょうど夕食どきでもあったので、近くで食事を摂りました。
行くところは決めていました。
以前ご紹介したこともあるイタリアン&ステーキのお店です。
画像ナシでお届けするグルメルポ <イタリアン編>
そのままの流れで歩いて行けます。

もちろん味はサイコーでした。
お土産に番付表もいただきました。

今回は、八千代座内のイベントは観ませんでしたが、とってもすばらしいと聞きました。
行くなら、ちょっと早い時間がいいと思います。
余裕があれば、点灯作業を手伝うとさらに楽しめます。
十分な防寒をしてお出かけください。
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一般公開に向け準備中!世界遺産登録を目指す【万田坑】(荒尾市)の魅力にせまる。
2010 / 02 / 05 ( Fri )
かなり大げさなタイトルを付けてしまいました。
今回は仕事の合間ではなく、仕事の一環として荒尾市の「万田坑」(まんだこう)に行ったので、(うしろめたさなく書くことができ)力が入っているんです。

ただ、国指定重要文化財及び史跡の「万田坑」(まんだこう)は、現在改修工事中で、近くで観ることはできません。
「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして平成21年1月に世界遺産暫定一覧表に記載され、本登録に向けた整備が行われているのです。

人が訪れたことを想定した安全性の確保や周辺整備、保存のための改修などが必要なんでしょう。

まず最初に行ったのが、「万田坑」の道を挟んだ向かい側にある「万田炭鉱館」です。万田坑のイメージに合わせたレンガ造り風の外観が特徴。
ただし、実際には公民館的役割が大きく、資料館としての機能はさほど充実してはないという館長の話でした。その館長は万田坑で実際に働いていたそうです。

10.2.4万田炭鉱館 (2)

初めて見る私にとっては、興味深いものがたくさん展示されていました。

10.2.4万田炭鉱館 (8)

石炭は、かつては“黒いダイヤ”と呼ばれていたそうですが、確かに黒く輝いていました。これも立派な石です。が、元は植物なんですよね。

ここで、「万田坑」の魅力に入る前に、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる「三井三池炭鉱」の全体像を知っておく必要があります。私もそれを知ったことで「万田坑」の魅力が深まったと言っても過言ではありません。

さて、この地域で石炭が発見されたのは、今から約540年前の文明元年(1469年)。稲荷山(とうかやま)で農夫伝治左衛門が石が燃えているの見つけました。その当時の日本は室町時代で、応仁の乱(1467年)の混乱の時代です。

そして、江戸時代に入ると、文政3年(1856年)に民営だった稲荷山は生山(いくやま)とともに三池藩による藩営の採掘場になります。

開国後の明治6年(1873年)には、政府の「富国強兵・殖産産業」を推し進め、国内炭鉱への外国勢力の進出を防止するために、官営としました。
労働力不足をまかなうために、囚人が坑夫として送り込まれました。
その囚人がいた刑務施設が「集治監跡」で、現在の三池工業高校です。
囚人は主に「宮原坑」(←ここも世界遺産を目指す近代化産業遺産の一つ)で石炭採掘に従事し、それは炭鉱が“三井”に払い下げられた後も続きます。
炭鉱が民間の“三井”に払い下げられたのは明治22年(1889年)です。このときの初代事務長に就任した「團琢磨」氏は、とても頭がよかったらしく、13歳で明治政府の留学生としてアメリカに渡っています。
そこで鉱山学を学びました。
当初は国の下で働いていましたが、三池炭鉱が民間に移ったのと合わせて團琢磨も“三井”へと移ったのです。

留学で学んだ知識・技術を活かし、炭鉱の近代化を図る中で、次々に坑口を造っていきます。
石炭は地中で一つの大きな層を形成しているので、採掘が進むと坑道もそれに従い伸びていきます。アリの巣(またはもぐら穴)のように掘られた坑道は、最終的には地下600メートルにまで達し、有明海の中央部付近まで伸びました。石炭の層が傾斜しているので、掘り進んでいくにつれ深くなっていくようです。
なので、坑口はたくさんありますが、地下ではすべてつながっているのです。
坑口のほとんどは大牟田市にありますが、「万田坑」(明治と「四山坑」の2つが荒尾市にありました。広大な三池炭鉱ですが、荒尾市の部分はほんのわずかなんです。

「万田坑」は、明治30年(1897年)から同35年(1902年)にかけて作られた第一竪坑と、明治31年(1898年)から同41年(1908年)にかけて作られた第二竪坑とからなります。

※余談・・・明治40年(1907年)8月16日に、与謝野鉄幹、北原白秋ら「五足の靴」が三池炭鉱を訪れています。

ただ、大牟田市ほどではなくても、この2つの坑口のおかげで、荒尾市はだいぶ潤ったということです。
戦後の復興に大きな役割を担ってきた石炭も、高度成長期の石油へのエネルギー転換の影響で、徐々に衰退していきます。国内生産はコスト高もあって、海外の安い石炭のが入ってきたことも原因の一つとなりました。
昭和35年(1960年)頃には、大量解雇に伴う大規模な労働争議が起こります。(三池争議)

「万田坑」は昭和26年(1951年)に採炭を終了。坑道に新鮮な空気を送り込むメンテナンス施設として稼働は続きます。
そして、平成9年(1997年)に「三井三池炭鉱」は閉山しました。

炭鉱の歴史は、単に日本の近代化を支えてきたという功績だけでなく、戦時中の強制労働や労働者のじん肺など、さまざまな問題を抱えていた、いわば光と闇を併せ持った歴史と言うことを忘れてはいけないと思いました。
(うーん。ちょっと難しくなってきました)

詳しくは、「大牟田石炭WORLD(大牟田市石炭産業科学館)」サイトをご参照ください。
(他にもいろいろあります)

いやー勉強になりました。
ほとんどが大牟田市なのに、世界遺産への取り組みとしては「万田坑」が中心となっていることにも驚きです。
(大牟田市にはあまり建物などが残ってないそうです)

10.2.4万田炭鉱館 (1) 10.2.4万田炭鉱館 (11)

ビデオの上映や昔の写真などもあります。
ただし、写真はみなさん意外ときれいな格好なんですね。
なんでも、撮影用だから・・・という話も後で聞きました。

現在「万田坑」は整備中ということですが、手前に新しく「万田坑ステーション」という建物がオープンしていました。

万田坑ステーション

こちらは純粋に「万田坑」の資料館です。
4月末の一般公開時には、「万田坑」の見学がなんと有料になるそうで、ここが受付場所になるそうです。
(えーっ!と思いましたが、維持管理にお金がかかるんでしょうね)

ここでは、やはり炭鉱で働いていたというガイド(?)の方に詳しく説明を聞きました。
資料を聞くのと、実際に働いていた人の生の声を聞くとでは雲泥の差がありますね。
とても分かりやすく、疑問点にも答えていただけるので、「万田坑」の魅力を理解することができました。

展示物も立派でした。

万田坑ステーション1 万田坑ステーション2

左が当時の「万田坑」全体の復元ジオラマです。
とても広く、いろんな建物があったそうです。
右の写真は、現在残っている建物と櫓です。(煙突は跡しかありません)

明治期の万田坑全景 万田坑

左が当時の写真で、右が残っている建物の写真(修復前)です。
いずれも万田坑ステーションで撮影させていただいたものを掲載しています。
全部が残っていれば、間違いなく世界遺産だったでしょうね。
一般公開が楽しみです。

DSC_0018_20100205185255.jpg DSC_0020_20100205185255.jpg

今回の修復工事で新しい発見があったことを教えていただきました。
それは、櫓の鉄骨は、当時できたばかりの官営八幡製鉄所で造られた鉄骨が使用されていたといわれていた(推測されていた)らしいのですが、塗装をはがしてみるとイギリス製ということが刻印より分かったそうです。
(だから何?と、いわれても・・・)

DSC_0022_20100205185254.jpg

遠目から撮影した「万田坑」です。
櫓がきれいに塗り直してあるのが分かります。

実は、この後、大牟田市の「石炭産業科学館」に行って、さらに詳しく学びました。
熊本ではないのでここでは紹介しませんが、とにかくお金がかけられた立派な施設で、すごかったです。
ただ、子どもには難しい内容でありながら、子どもでも楽しめるように作られているところに無理が生じているという印象でした。
(行ってみてください)

「万田坑」・・・4月下旬の一般公開が待ち遠しいです。

おおまけ↓

自販機

売上の一部が万田坑世界遺産の支援に活かされています。
普通より高いわけではありません。

メロンパン

家族へのおみやげ。「万幸堂」のメロンパン(100円)です。
荒尾駅のほうにあります。(下マップ参照)


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芸術的な二重アーチの石橋【岩本橋】(荒尾市)
2010 / 02 / 05 ( Fri )
荒尾市と大牟田市(福岡県)の県境近くにある石橋「岩本橋」に行ってきました。
石橋は“石”の魅力に触れるとき、基本となる素材です。

岩本橋2

関川に架かる美しい二重アーチ橋です。(熊本県指定重要文化財)
この場所は、三池往還と呼ばれる旧街道沿いにあたり、藩の関所があったそうです。
周辺は公園整備化されていて、駐車場やトイレもあります。
売店(直売所?)もありました。

岩本橋説明板

案内板です。
これによると、架橋年にはいろいろと説があり、種山石工の橋本勘五郎が手掛けたといわれているそうです。
ネットにもいろいろと出ています。
ただ、案内板には、

橋本勘五郎が明治四年頃工事責任者となって架橋したのであろうと古老はいっている。


と書いてありました。
要は、(ちょっとは昔のことに詳しい)地元のおじいさんが「○○だろう」と言っていたということですよね。
いつ聞いたかにもよりますが、こちらとしては不安でなりません。
ネットで調べると、専門の方が古文書を読んで、岩本橋の架橋年が文久3年(1863年)と分かったということが書いてあったので、私はこちらを信じたいと思います。

岩本橋1

何やら古い石碑のようなものが建っていました。

岩本橋3

下から失礼します。
なんだか、石橋の恥ずかしい部分を見ている気分・・・。
でも、しっかりと組んであるとはいえ、重い石がよく落ちないなあと感心してしまいます。

岩本橋4

説明板にもありましたが、これは、川の流れの強さを弱めるために付けられた「水切り」と呼ばれるものです。
ほんと、いろいろと工夫が施されています。
この曲線がなんともいえません。

岩本橋5

欄干部分には、菊の紋が装飾されている部分があるそうです。
残念ながら分かりませんでした。
なんとなく、何かしら削られているというのは分かるんですが・・・。
(こんなとき「拓本」したくなりますよね)

岩本橋6

橋の上はコンクリートで舗装(修復)されています。
(ちょっと残念)

この後、本当は近くにある「石人」に会いに行きたかったのですが、道を間違えてしまい、この日は断念することにしました。
次回は、ちゃんと下調べして、いってきます。
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今日は節分、「恵方巻」の日
2010 / 02 / 03 ( Wed )
今日は2月3日の節分です。
家に帰ったら(現在仕事中)、娘と豆まきです。

最近、やたらと「恵方巻」が売られるようになった気がします。
こんな習慣昔はあったでしょうか。
お寿司屋さんの策略に乗せられているのかもしれません。

と、いいながら、買いに行った私。
山鹿市の「水辺プラザかもと」で、たくさんの変わった「恵方巻」を売っていると聞いていたのですが、私が行こうとしたときにはすでに“売切れ(完売)”との情報が・・・。

そこで、「あんずの丘」へ行き、ハーフサイズを3種類(各1本)買いました。
「チキンカツ(サラダ巻き)」「味彩牛恵方巻」「地鶏照り焼き恵方巻」です。
今日の晩ご飯です。

ちなみに恵方(福の神様がいる方角)は、「西南西」らしいのですが、私にとって、おいしいものを食べることができるということが十分に“福”だと思ってます。
なので、普通に食べる予定です。

来月は「ひなまつり」があります。
(人吉球磨のひなまつりも始まりましたね)

どんな美味しいものが売られるのか楽しみです。
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地元の人たちの信仰力を強く感じる【御宇田神社】(山鹿市鹿本町)
2010 / 02 / 01 ( Mon )
前回の続きです。
なので、前回を読んでいない方は、こちらから先に読まれることをおススメします。
(と書きながら、観客のいないステージで挨拶している気分・・・)

さて、「御宇田井手」(みうたいで)の「扇形分水」という衝撃の発見からスタートした山鹿市鹿本町での寄り道も「御宇田神社」で終了。
一応弁解しておきますが、(前の記事も含め)今回の内容は一日で全部行っている訳ではありませんので・・・ちゃんと仕事に支障をきたさない程度の寄り道のとどめていますので、あしからず。

なんか自分に言い聞かせている出だしですが、本題に進みます。

天気も良かったので、お昼の休憩を兼ねて立ち寄ったのが、山鹿市鹿本町の「御宇田神社」(みうたじんじゃ)というところです。
国道325号からちょっと中(北側)に入ったところにあるんですが、鳥居や社殿の一部を見たことはあっても、名前までは知らないようなマイナー(だと思います)な神社です。

駐車場が広くて驚いたのですが、看板を見ると、どうやら公園やグラウンドが周辺にあり、それらを利用する人たちの駐車場も兼ねているようです。

御宇田神社1

御宇田神社2

参道から少し入り、正面から見たところ。
鳥居も楼門も社殿も結構立派でした。

御宇田神社3

ここも巻き柿型のしめ縄ですが・・・先の神社と違うのは、鳥居の額の上に乗っけてあるようにして設置してあるということ。まあこちらのほうが安定して見えますね。

御宇田神社4 御宇田神社5

「日岳五社宮」と同様に細身の狛犬です。
同じ石工の作でしょうか。
右側は楼門です。

御宇田神社6 御宇田神社8

その楼門の横に、石灯籠の頭部分のようなもので蓋がされている箇所がありました。
昔の井戸の跡かもしれません。
社殿(上右写真)は比較的新しそうでした。でも立派な造りです。
どの神社も立派なので、この辺りは、昔から豊かな土地柄だったのかもしれません。

御宇田神宮由緒g

ここの神社にはきちんと由緒が建っていました。(ホッ)

御宇田神宮は、光孝帝仁和二丙午年伊勢・熊野・八幡三社を勧請す。其後四経帝仁治元年阿蘇一宮を合祀し四座一殿として御宇田大明神と号す。

つまり、「仁和二丙午年」(※丙午/ひのえうま)、西暦886年に基となる神社ができ、「仁治元年」、西暦1240年の「御宇田神社」となったということでしょう。いずれにしてもとても長い歴史がある神社だということが分かりました。

また、文中に「毎年お花畑に罷り出て玉串差し上げ・・・」とありますが、硬い内容の由緒の中にあって、ここに出てくる「お花畑」という言葉がとても印象に残りました。
美しいお花畑があったんでしょうね。

この神社で一番印象に残ったのは下の写真。

御宇田神社17 御宇田神社16 御宇田神社15
御宇田神社13 御宇田神社14 御宇田神社12
御宇田神社23 御宇田神社22 御宇田神社21
御宇田神社19 御宇田神社24 御宇田神社18

この写真は見ての通り、「○○を奉納した」とか「○○を改修した」ときに建てた記念碑です。
かなりたくさんあります。
(猿田彦が混ざっていますが・・・)
特に古い碑は、神様や歴史ある石碑との区別が非常に分かりづらいです。
(改修記念碑に手を合わせたり・・・)

地元の方(氏子の皆さん)の信仰心が厚いことはとてもよく分かるのですが、いささか前に出過ぎというか、もう少し考えて建ててほしいというか、そんな感じがしました。

でも、なるほどと思うことも。
今では名前を書くときに“あいうえお順”で書いたりしますが、昔は“いろは順”だったんですね。
そんなことに気付く程度ですが、一応「なるほど」と思いました。

御宇田神社25

最後に社殿の天井です。
いろんな画が飾ってあります。(奉納されたものでしょうか)

正面に「御宇田宮」の文字が書かれています。
誰が書いたのか分かりませんが、とても達筆です。
それにしても、「御宇田神宮」「御宇田社」「御宇田宮」「御宇田神社」といろいろと呼び方があるようです。でも、私の性格としては一つに統一してほしいですね。
人の名前の「○○様」「○○君」「○○さん」のようなものなんでしょうか?
だとしたら(←しないと思う)、「神宮=様」「神社=さん」「宮=くん」「社=ちゃん」といったところでしょうか。あくまでも私の印象です。

いやー神社って奥が深いですね。

下の地図を参考にしてください。

より大きな地図で 御宇田井手といろいろ を表示
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